才知あふれる明治の先人が残した
光彩陸離たる勲章

明治8年(1875年)に制定された我が国の勲章制度。
その発展に貢献したのが、
かつて信濃国龍岡藩の藩主だった大給恒です。
大給は世界各国の勲章を研究し
外国にはない日本独自の勲章をつくろうと
自ら筆をとり図案づくりに情熱を注ぎました。

日本の伝統に基づく優美なデザイン

勲章はもともと西欧の制度でしたが、明治新政府は日本古来の「勲」と「位階」を融合させたひとつの制度を創設しようと、当時、左院三等議官だった大給恒らに勲章制度の確立を命じます。
賞勲事務局初代副長官となった大給は、ナポレオン三世より贈られた『各国勲章図解』を参考に、日本の伝統に基づいた優美な勲章図案を、自ら筆をとってデザインしました。
そして、「各意匠を異にして、光彩陸離たるもの、外国人またその緻功に感服せり」と称されるほど、美しく精巧で緻密な図案を完成させたのです。大給のその思いに応え、七宝焼家元の平田春行が「旭日章」や「瑞宝章」などを製作しました。

「勲章の父」と呼ばれた大給恒
大給恒の元の名は松平乗謨といい、徳川宗家から分家した家系に属す信濃国龍岡藩の藩主でした。幼いころから才知にあふれ、幕末には陸軍奉行や老中格を務めました。 しかし明治維新の廃藩置県にともない龍岡藩は廃藩。松平の姓名を藩祖発祥の大給にちなんで「大給」と改め、さらに名も「恒」に変えました。やがて大給は明治新政府に召し抱えられ、勲章制度の確立を任されます。日本の勲章の多くを自ら考案したことから、「勲章の父」「勲章制度の祖」と呼ばれるようになりました。大給はまた、佐賀藩出身の佐野常民とともに日本赤十字社の前身・博愛社の創設に尽力します。敵味方わけへだてなく救済する博愛の精神を持ち、常に時代の変化に敏感な先見力を備えた、まさに「知」の人物でした。
もうひとつの五稜郭「龍岡城」
大給恒(当時は松平乗謨)は、激動の幕末に我が国最後の城を築いています。かねてから洋式城郭に憧れていた大給は、フランスの五稜郭をモデルに設計図を描き、幕府に築城許可を申請。ついに元治元年(1864年)、藩領の田野口に建設を開始します。そして3年余の歳月をかけて城を完成させ、「龍岡城」と命名しました。 幕府が北辺警備のため築城した「函館五稜郭」と同じ、先端に砲台を据えて敵の攻撃を死角なしに防ぐことができる構造は、日本で二つだけの星形城郭となりました。
栄誉の重みと意義を後世に
明治の「知」の先人、大給恒の情熱と行動力でつくりあげた勲章は、今もなお国家栄典にふさわしい輝きとして受け継がれています。 その栄誉たる重みを知る私どもみどりイワサキ会は、叙勲・褒章をご受章されたみなさまのご功績を称え、大切な賜物を子々孫々と後世までご掲額いただく意義をお伝えしております。